月夜の寺に灯る小さな奇跡(座敷わらし)

不思議な話


昔 遠野のある寺に 夜になると 小さな子どもの姿 が現れるという噂がありました
昼間には誰もいないはずの本堂から
「トントン……」
と 子どもが走り回るような音が 聞こえてくる
寺の者が見に行っても 誰もいません
ところが翌朝になると 本堂の仏具が少し動いていたり
子どもの足跡のようなものが 残っていたりする
和尚が不思議に思って 夜遅くまで待っていると
暗い本堂の隅から 小さな子どもがひょっこり姿を現した
その子は和尚を見ると 何も言わずに笑い 仏さまの前へ座ったといいます
和尚が 「お前はどこから来たのだ?」
と尋ねると 子どもは答えません
ただ 仏さまをじっと見つめていました
やがて和尚が念仏を唱えると 子どもの姿はすっと消えてしまった
それからというもの その寺では不思議なことが 起こるようになります
 寺の米びつを開けると なぜか米が減っていない
 火の始末を忘れたはずなのに 火が消えている
 病気になった者が寺で祈ると 翌朝には元気になっている

和尚は「あの子は悪いものではない 仏さまのそばにいる子なのだろう」
と考えるようになった―― 
こうした「子どもの姿をした不思議な存在」
 後に 座敷わらし と結びついて語られることがあります
座敷わらしが家の繁栄と結びついていることから
「座敷わらしがいる家では、なぜか食べ物がなくならない」
というような話も生まれました
 米びつを見れば米がある
 家族が増えても不思議と食べていける
 商売をすればうまくいく
 病人が出ても回復する

こうした家の幸運を
 「座敷わらしのおかげだ」
と考えたわけです
でも、座敷わらしが出ていくと……
ここが 座敷わらし伝説の一番怖いところ です
座敷わらしは 来ると幸運をもたらす
しかし 出ていくと、その家から幸運も消えてしまう
孫左衛門家の伝承は その典型です
だから昔の人は 「家の中で子どもの姿を見た」と聞くと
怖がるだけではありません
むしろ
 「この家には何かがいる」
 「この家は守られているのかもしれない」
と考えたのです

座敷わらしは 「子どもの幽霊」 とは少し違います
ここが面白いところです
座敷わらしは 単純な幽霊とは考えられていません
一般には
家に住みついて その家に幸運をもたらす存在
として語られます だから
 座敷で子どもの声がする
 夜中に走り回る音がする
 子どもの姿を見た
 家の物が少し動いている

などの不思議な出来事があっても
必ずしも 「怖いもの」 とはされません
むしろ 「座敷童がいる家は栄える」 と考えられていました
では、なぜ「寺」と結びつくのでしょう?
ここには日本の昔の死生観が関係していると考えると とても興味深いです

昔の日本では 子ども=この世に生まれてきたばかりの存在である一方
仏=この世とあの世をつなぐ存在 という感覚がありました
さらに寺は
 死者を弔う場所
 先祖を祀る場所
 仏さまがいる場所
 この世とあの世の境界

でもありました
そのため 昔話の中では
 「寺に小さな子どもの姿をした不思議なものが現れる」
という話が生まれやすかったとも考えられま


遠野の昔話として見ると……
遠野の魅力は 座敷わらしを単なる 「妖怪」 として扱わないところです
遠野の昔話では
 人間  死者  神・仏  妖怪
という世界が はっきり分かれていません
たとえばオシラサマ(※)の話でも 人間だった娘と馬が この世を去ったあと神として祀られるという変化があります
座敷わらし
 「誰か分からない小さな子ども」→「家を守る存在」
というように
 人間と異界の境界にいる存在として 見ることができます

※ おしら様(オシラサマ)は 主に東北地方(青森県や岩手県など)で広く信仰されてきた日本の民間信仰における家神(いえがみ)です
一般的に「養蚕の神」「農耕の神」「目の神」として知られ吉凶を知らせる 神様ともいわれています

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